中国の李鵬元首相、90歳で死去 「北京の虐殺者」と呼ばれ

File photo: Former Chinese Premier Li Peng attends the opening session of the 18th National Congress of the Communist Party of China at the Great Hall of the People in Beijing, China 8 November 2012.

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画像説明, 李鵬元首相は天安門事件をめぐり「北京の虐殺者」と呼ばれた

中国の元首相で、1989年の天安門事件で戒厳令を発した李鵬(リー・ポン)氏が22日夜、死去した。90歳だった。国営メディアが23日に伝えた。

国営新華社通信によると、李氏は北京で病気により亡くなった。病名は明らかにされていない。

李氏は1980年代と1990年代に、中国共産党の主要な役職を務めた。

ただし、最も知られているのは「北京屠夫」、「六四屠夫」、つまり「北京の虐殺者」、「天安門事件の虐殺者」としてだ。1989年の天安門事件では民主化運動を弾圧。軍は非武装の民間人を何百人も殺害した。

李氏は後年、自らの行為について「必要な」措置だったと弁明した。

新華社通信は評伝で、「政情不安を止め、反革命的な暴力を鎮めるために断固たる手段を講じた」とした。

動画説明, 天安門事件から30年 中国が忘れた映像

中国政府は30年間、虐殺に関する情報は検閲を続け、天安門事件で起こった残虐行為への言及を避けている。

天安門事件のリーダーの1人で、現在は海外で暮らすウアル・カイシ氏は、李氏の死去を喜んでいるとBBCに語った。1989年6月に愛する人々を失った人たちは、今も正義を待ち望んでいると言う。

「李鵬氏は6月4日虐殺事件の虐殺者で、そのように世界および歴史に記憶されるべきだ。そしていつかは、中国の教科書でもそうなることを望んでいる」

1989年には何があった

天安門事件では、1989年4月から2カ月間続いていた民主化運動の参加者たちに対し、政府が軍の部隊と戦車を投入。軍は抗議者に向けて次々と発砲した。

当局はその後、現場の天安門広場で射殺された人は1人もいないと説明した。

中国政府は事件の死者数を公表していないが、数百人が死んだとみられている。人権団体や目撃者たちは、死者は数千人に達するとしている。

この弾圧を主導したとみられるのが李氏だった。

動画説明, 天安門への帰還 30年前の学生が振り返る

李鵬氏の役割は

天安門事件を強硬手段で鎮圧するに至った政策決定過程の中心的存在だったと、広く認識されている。

1989年4月から北京市内の民主化要求運動が勢いを増すなか、趙紫陽総書記(当時)が学生活動家たちに理解を示す姿勢を見せたのに対し、李氏ら保守派は強硬措置を主張。李氏は5月20日、北京の一部に戒厳令を公布するため国営テレビに登場。

当時の最高実力者だった鄧小平・中央軍事委員会主席が率いる中国共産党はその2週間後、天安門広場に軍と戦車を送り込み、デモを鎮圧するという判断に至った。

Li Peng and his wife Zhu Lin wave to crowds

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画像説明, 2002年2月にマカオを視察した李鵬氏とジュ・リン夫人

武力鎮圧の決断には他の共産党幹部も関わっていたとされるが、その責任は広く李氏にあるとされてきた。

2010年に出版された李氏の日記によると、李氏は自分は単に鄧主席の命令に従っただけで、自分1人の責任ではないと主張している。

それに対して、「天安門文書」と呼ばれる漏洩(ろうえい)された共産党資料では、先頭に立って武力鎮圧を主張したのは李氏で、賛成するよう鄧主席を促している様子がうかがえる。

中国国内では李氏はむしろ、経済改革の立役者として知られ、世界的な経済大国への急激な台頭を可能にした人物と評価されている。

しかし国際社会での李氏のイメージには、今も天安門事件の虐殺が暗い影を落とす。外国訪問には抗議集会がつき物で、1996年にパリを訪れた際には数千人が抗議に参加した。

訃報はどのように

あらかじめ用意されていた訃報記事で、新華社は李氏を「中国共産党の傑出した一員(中略)忠実な共産主義の闘士、傑出した労働者革命家で政治家」と称賛した。

記事はさらに、「清潔で正直な政府」を作ったとたたえ、「李鵬同志は不死身だ」と書いている。

Li Peng inspects a military honour guard at Prime Minister House in Islamabad, Pakistan 9 April, 1999

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画像説明, 李鵬氏は、天安門事件は自分のせいではないとイメージ修正を図っていた

国営・中国中央電視台は、「李鵬同志が死去した」というキャプションをつけて、白黒の遺影を放送した。

一方で、中国政府から独立している香港英字紙サウス・チャイナ・モーニング・ポストは、「1989年に天安門広場で中国政府が学生主導の抗議を強硬鎮圧し、流血沙汰を招いた。その際の役割をめぐり、物議を醸したことで記憶される」と書いた。

これに対して中国のソーシャルメディア「微博」では、李鵬氏の名前が検閲対象になることはなく、ユーザーたちは弔意を書き込むことができた。ハッシュタグ「李鵬同志死去」やろうそくの絵文字が、追悼の意味で多様されている。

微博では共産党幹部の名前が投稿できなくなることが多い。

李鵬氏とは

四川省で1928年に四川省で、共産主義の革命家の息子として生まれる。父親は1931年に国民党に殺された。

3歳で孤児となった李氏は、後に中国人民共和国の初代首相となる周恩来と鄧穎超夫人に育てられる。

10代になると中国共産党に加入し、モスクワ留学で水力発電技術を学ぶ。

帰国後には、各地で発電事業に従事。家族の縁故のおかげで文化大革命(1966~1976年)の混乱には巻き込まれずに済んだ。

鄧小平体制になると次第に頭角を現し、電力工業部長(大臣)を経て、1987年に国務院総理(首相)に就任する。

1998年3月に朱鎔基氏に総理の座を譲ると、2003年まで中国の最高国家権力機関、全人代常務委員長を務めた。