作家の大江健三郎さん死去、ノーベル文学賞受賞 88歳

Kenzaburo Oe

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画像説明, 大江健三郎氏

ノーベル文学賞を受賞した作家の大江健三郎氏が3日、死去した。88歳だった。

フランスとアメリカの文学に強い影響を受けた大江氏は、日本への原子爆弾投下や、知的障害を持つ息子とのかかわりについての力強い作品で知られた。

1994年には、「ダークな詩的」作品が「人々の苦境を浮き彫りにしている」として、ノーベル文学賞を受賞した。

講談社は、大江氏は老衰のため亡くなったと発表した。

大江氏は1935年、愛媛県の山村に生まれた。終戦時には10歳だったが、戦時中の体験がその後の半生に影を落とした。学校では毎日、天皇のために死ねるのかと聞かれていたと、大江氏は振り返っている。

1945年の日本の降伏後、大江氏は占領軍による民主主義の原則に魅了された。その後、自らが日本の軍事的・経済的侵略と呼ぶものを強く批判するようになった。

ノーベル賞を主催するスウェーデン王立科学アカデミーはノーベル賞授与当時、「この屈辱が大江氏を強く支配し、その作品の多くに影響を与えている」と評価。作品には、暗く不穏な力によって軸がぶれる世界が頻繁に描かれており、アカデミーは「大江氏自身、執筆は悪魔払いだと表現していた」と述べている。

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画像説明, 大江氏は戦後日本の在り方を強く批判し続けた

大江氏は1954年、東京大学文学部仏文科に進み、演劇脚本を書き始める。1958年には、日本の山村で捕虜となったアメリカの黒人パイロットを描いた短編「飼育」を発表し、翌1959年の大学卒業を前に文学界にデビューした。

「飼育」は芥川龍之介賞を受賞。三島由紀夫氏以来の、期待の若手作家と評価された。この作品は後に、大島渚監督が映画化した。

1960年代には、原爆の被害者やその支援者を描いたエッセイ作品「ヒロシマ・ノート」で国際的な評価を得た。

この作品は大江氏たっての希望で、知的障害を持つ子の誕生に苦悩する父親を描いた「個人的な体験」と同じ日に発売された。

同作は、大江氏の実体験がもとになっている。息子の大江光氏は1963年に脳ヘルニアを持って生まれ、その後の手術の結果、学習障害が残った。

大江氏は、広島の人々に勇気づけられたことで、自分の家族の問題にも当たることができたと話し、この2作品は不可分のものだと述べていた。

政治への怒り

大江氏の作品にはしばしば、政治家に対する怒りが表れている。

1960年に日本社会党の浅沼稲次郎委員長が暗殺されると、それに着想を得た「セヴンティーン」を発表。右翼団体から激しい批判や脅迫を受けた。

1970年に発表した「沖縄ノート」では、沖縄戦において日本軍が民間人に、降伏すればアメリカ兵に強姦や拷問、殺害されると伝え、集団自決を強いたと指摘したため、名誉棄損で訴えられている。

この長い裁判は、学校の教科書から軍の関与に関する記述を消そうとする右派の政治家にも利用された。しかし2011年、最高裁は「軍が深く関わったことは否定できない」として、原告の訴えを棄却した。

大江氏の作品の多くでは、鮮やかで迫力ある文体で、日本の農村地域の苦境が語られる。実存主義小説「万延元年のフットボール」では、数十年ぶりに先祖代々の家に戻ってきた2人の兄弟を描いた。

大江氏の後年の作品には、贖罪(しょくざい)のテーマが多く見られるようになった。同じ頃、息子の光氏は初期の苦難を乗り越え、作曲家として成功を収めた。

Kenzaburo Oe at an anti-nuclear protest in 2013

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画像説明, 2013年、東京で行われた脱原発デモに参加する大江氏

大江氏は数度のノーベル文学賞ノミネートを経て、1994年に同賞を受賞した。

その後、日本で文化勲章の授与が内定したが、天皇からの親授式があると聞いて断っている。大江氏は米紙ニューヨークタイムズのインタビューでその理由について、「民主主義に勝る権威と価値観を認めないからだ」と説明した。

2011年の福島第一原発事故で、大江氏の原子力に対する反対姿勢はさらに強くなった。2013年には東京で行われた脱原発デモに参加している。

大江氏は1960年、映画監督の伊丹十三氏の妹のゆかり氏と結婚した。子供は光氏のほか、娘と息子が1人ずついる。